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▼芸術家画家のいた風景
2007年12月▲ |
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母の葬儀の翌日、生後3ヶ月の雌三毛猫が玄関先にやってきた。文様が母の帯色に似ていたので生まれかわりに思えて飼うことにした。 狸にも似ていたのでタヌキと一度は命名したが、それではレディーに失礼と「タヌー」にした。どこかフランス語の響きがあって洒落た感じがしたからだ。 その頃、僕は運命のいたずらで失意のどん底にいた。夜更けに孤独感に襲われると、寝ている「タヌー」を起こしては悩みを聞いてもらった。そんな時の彼女は、視線を僕に向けて暖かく見守ってくれた。そして、元気が出るようおどけて和ませる。いつしか「タヌー」は、僕にとって欠かせない存在となった。 僕は父から相続した東京世田谷にある63坪の土地に住んでいる。運命の続編は、この土地すらも手放さなくてはならぬ結果となった。 これから借家に住むとなると、彼女と住むことも儘ならない。おそらく友人に預かってもらうことになるだろう。「タヌー」の親しんだ場所を奪ってしまうのかと思うと心が痛む。 だが、「タヌー」と別れても一挙一動が記憶に蘇り、新たなエネルギーを奮い立たせるに違いない。 「タヌー」ありがとう! 2004年10月▲ |
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不信の時代になった。万物を素直に認めがたくなった。自分も現代社会の屈折した空気に毒されてしまったのだろうか。僕は鬱状態を一掃しようと、フランス・ブルゴーニュへと旅だった。
ブルゴーニュ地方は、フランス南東に広がる穏やかな丘陵地帯。赤ワインで牛肉を煮込むブルギニォン料理で世界の人々から親しまれている。広大な葡萄畑にロマネスク寺院が点在する小さな村々。そこには、第二次大戦でドイツ・ナチスの攻撃にも屈することなくワインを守った誇り高き人々が住んでいる。 僕は70年代をフランスで過ごした。寂しくなるとブルゴーニュを訪れたものだ。心暖まる人々の優しさで、どれほど孤独が癒されたことか。ブルゴーニュ最南端の町−シャロン・シュール・ソーヌには、写真発明家ニセフォール・ニエプスを記念して創立された美術館がある。開設当初、かけだしカメラマンに過ぎない僕に、館長のアンドレ・ローランサン氏が写真展の場を提供してくれた。国境と肩書きにこだわらない館長の勇断に感動すると同時に、大きな感謝の念を抱いた。この旅は「ブルゴーニュの人々ともう一度会いたい」が目的だ。 訪れてみると、かつて出会った老人は、この世に亡かった。人形のように愛らしかった子供達は、でぶっちょのオジサンやオバサンに変身していた。でも、回想風景はあちらこちらに残っていた。さすがフランス。ひいき目でファインダーを覗くためだろうか、ブルゴーニュの人々の表情には、汚れが微塵も感じられない。僕は何時の間にか元気を取戻していた。▲ |
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昭和19年を迎えると戦争は一段と激しくなり、ひんぱんに空襲警報がなり響いた。しかし、サイレンの音を聞いても上空の敵機を見ても、覚悟が出来ていたのか恐怖心はなかった。土牛(とぎゅう)は、慣れない所への転居を拒む83歳の母親・たま、妹・くに、長男・昭と赤坂に残り、家族を長野県南佐久郡臼田町に疎開させた。災難は重なるもので、翌20年2月18日には母が風邪をこじらせ他界。遺体は政府がまとめて引き取りにきた。手を合わせて見送ろうにも、どれが母の棺か見分けがつかなかった。折しも2月18日は土牛の生まれた日であった。 傷心を癒す間もなく土牛も家族のもとへ向かった。臼田町でも次第に気ぜわしい空気になって行くのが肌身に感ぜられた。知り合いもなく食料を手に入れるのがひと苦労だった。そんな最中、4月に四男・勝之が生まれた。栄養が十分にとれず痩せ細り、心ない輩は「まるでサルの子だ」と嘲笑した。勝之誕生で土牛は四男三女の父として重い責任も負うことになった。 |
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8月15日の玉音放送を六畳の狭い部屋で、妻・仁子(きみこ)とラジオの前に正座して聞いた。天に忠誠を誓う土牛だけに途切れ途切れの陛下の言葉は身に堪えた。その夜は眠れず月光照らす信濃の山々を眺めた。静かで心底寂しかったが、昨日まで厳しく見えた山が何故か穏やかに感じられた。終戦は迎えたものの、東京は驚くほどの荒廃ぶりだった。田舎は変わりがなく、心休まる思いがしたので佐久に留まることにした。そして、溜まった疲れを取除きながら、ぼつぼつと写生に身を入れ始めた。正面に八ヶ岳、手前に千曲川、右に噴煙を上げる浅間山とモチーフは周囲にいくらでもあった。空気は澄み切って遠くの村々がはっきりと見渡せた。とりわけ佐久の春は見事だった。雪どけと共に、梅も桃も桜も牡丹も一斉に咲くのである。 昭和20年晩秋、土牛は手狭になった臼田町の借家から国鉄・小海線で4駅目の穂積(現八千穂村)に移った。その村の美術好きで醸造業を営む旧家の黒澤一族の世話になり、会館の一隅を借りて住むことになった。この辺も清らかで美しかった。小淵沢方面に向かうと松原湖、海ノ口温泉、川上、野辺山、清里と風光明媚な自然が続いた。しかし、冬の寒さはひとしおで零下18度まで下がり、画絹(絹本の画布)に刷毛で水を引くと見ている前でバリバリと凍り、寒中は絵を描く環境ではなかった。土牛は佐久への愛着が強まるにつれ、画道に焦りを抱き始めた。 どういう因縁なのだろうか、土牛の軌跡を追って穂積を訪れた息子も、疎開当時の父の年齢に達していた。▲ |
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僕は画家を生業とする56歳の父と、夫一筋の44歳の母の間に1945年に生まれた。明治生まれの両親はしきたりを大切にする典型的な日本人であった。一家が疎開先から帰京した頃、日本は戦後復興を夢見て誰もが必死に働いてた。経済が回復に向かうと、スポーツや芸術を楽しむゆとりも生まれてきた。その恩恵もあってか、地味な父までもが脚光を浴びた。我が家には作品を求める客がひっきりなしに訪れるようになった。売れない時代は霞を食べて暮らす毎日だったが、不思議な力に認められると恐ろしいまでの飽食生活に一転する。父は息子にためらいもなく高価なカメラを渡す。息子も駄菓子でも貰う感覚で受け取り。気がつけば、小学生にも拘わらず、何台ものカメラを所有していた。無責任な大人達は「カメラマンになりなさい」とけしかける。考える余地もなく期待に応える義務と責任を負う身となった。そして23歳の春、フランス・ブルゴーニュ地方にある写真発明家ニセフォール・ニエプスが研究に没頭した屋根裏部屋に立っていた。粗末な裸電球に照らされた研究室が人生の道程の光と陰を暗示していた。 エスプリの毒化は若い田舎者を狂わせた。劇的なカフェとの出会い、パリっ子気取りの恋、不明な別れ、不相応な人々との付合い、愚かにも虚飾の世界にどっぷりと浸かっていた。嫌気がさして旅に出た。アルジェではカスバの生々しい残像に、サハラでは厳しい大地の掟に、フォレンツェではミケランジェロの肉体と精神との壮麗な結合に遭遇した。パリに戻ると、すぐさま北西30Hにあるゴッホが再起を果たしたオーヴェール・シュール・オワーズを訪ねた。 |
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再出発を期して帰国したものの、なぜか憧着が生ずる。それが暗闇の始まりとは想像もしていなかった。父の死が導火線となり、僕は奈落の底へと沈んだ。わめいても叫んでも誰も助けてはくれない。これまでの常識やしきたりも全く役に立たない。この時、写真が命綱であることを身にし染みて感じた。 母も死んだ。翌日、やせ細った雌のノラ猫が玄関先に腹を空かして座っていた。毛色が母の帯色に似ていた。母の生まれ変わりと思い込み飼うことにした。彼女は表情を変化させ「本気に闘え、無理はするな、望みを忘れるな」と語りかける。2001年、九州唐津で元旦を迎えた。陽が昇るにつれ、心の闇も消えて行った。▲ |
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「パリ万国博覧会が開催された当時、エッフェル塔の下で幕府と薩摩のサムライが切り合いをした。その記録は葡萄牙の図書館に保存されている」と1970年代初頭にフランス人から聞かされた。僕は「いつの日か葡萄牙を訪れてみたい」と思うようになった。そして1993年、長年の夢が40日間の旅として実現した。 「葡萄牙は現代日本の原点」とも言える。1543年〜1639年、種子島の鉄砲伝来から鎖国に至るまで、天正少年使節派遣をきっかけに衣食住など、今日の我々の生活様式に絶大な影響を与えた国だからである。 1640年に鎖国解除を懇願に来日、「鎖国令に反した」との罪で長崎・西坂で処刑されたフランシスコ・パシェッコの子孫とミーニョ地方で出会った。「日本に悪感情を抱いているのでは」と心配したが、「先祖が日本に貢献出来て誇り」と感動を露にした。この心の広さ、優しさ、明るさ、素朴さ、信心深さ。「葡萄牙の財産は人間だ」と実感した。 先進国と呼ばれ、政治・権力を握り経済発展に浮かれる国々、しかし、その実態は荒廃した人間関係などが原因で社会問題化している。そんな渦中で葡萄牙は「心ある国」として威光を放つ。見事な人間達に喝采。▲ |
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1968年、パリは『5月革命』で騒然としていた。第二次大戦後、喪失したフランスの栄光回復に尽力してきたド・ゴール大統領も政治的危機に立たされていた。69年には長期政権が終焉、そして、ド・ゴールは翌年亡くなった。こうして70年代は英雄の死から始まった。中国では文化大革命の嵐が吹きまくり、毛沢東思想が資本主義国の学生にも大きな影響を与えていた。経済至上主義に同調出来ない若者がヒッピーとなって地下道などで三々五々集う姿が見受けられた。パリ・モンパルナスや郊外のラ・デファンスでは、古い建物が次々と近代的なビルに建て変えられ、黒ずんで汚れた建物は世紀の大掃除で白く小綺麗になったが、歴史も情緒も共に洗い流していった。政治・経済・社会の急速な変化に市民は戸惑っていた。 新しい価値を見出せない人々は、1925年頃にモンパルナスを拠点として一世を風靡した芸術活動「エコール・ド・パリ」を懐かしんだ。70年代には、この時代を具に写真に残してきた写真家・ブラッサイも健在だった。エコール・ド・パリ末期に参画したカテラン、ブラジリエ、テレスコビッチなどの画家達は、日本市場の外国崇拝に支持されて大忙しの毎日を過ごしていた。「古きものに頼りながらも、新しい発見をせねば」というフランス人のジレンマが、街の至る所に現れていた。 70年代半ばには高度経済成長の波に乗って、文化より投機的価値を重んずる多くの日本人がパリを訪れるようになった。誇り高きフランス人ですら、そんな傾向に批判的ながらも経済至上主義を受け入れざるを得なかった。そんな時代に僕はフランスにいた。▲ |
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熱血の正義感 彼女がさしのべた愛の手で人間や動物がどれだけ救われたことか。かつては当たり前の道徳心も、今では希有な存在となってしまった。そんな彼女に感謝する人は多いが、一方で単刀直入な表現とラテン仕込みの激しい気性は名誉や地位など保身に走る人々からは煙たがられる存在でもある。 父が働くブラジルから、彼女自身の仕事の都合で単身ロサンゼルスに移り住んだ。そして、ロスの近郊のグレンデールで10数年間を過ごした。彼女はアメリカ社会に溶込み、SUSIE と云う愛称で親しまれた。多種多様な仕事にチャレンジして国籍取得も可能な経済的自立を獲得、伴侶も見つかり生涯をアメリカで暮らすかに思えた。だが、仕事多忙な夫婦はコミュニケーション不足から離婚。SUSIEの海外生活で初めての挫折となった。 当時、SUSIEを安ずる両親から「日本に戻って来い」と再三の手紙を受取った。しかし、彼女は「負け犬で帰国したくない」と自分に言聞かせ、気がつけば8年の歳月が流れていた。その間、失意のSUSIEを優しく支え続けたのがグレンデールの隣人であった。ひとたび非常事態となれば力を合わせて悲しみ苦しむ者を救う。これが多国籍民族集合体の長年培った知恵なのかも知れない。 元気になって帰国、彼女を待ち構えていたのは思いも寄らぬ日本の変貌だった。街は自己中心的な人間で溢れ、新聞紙上は殺伐とした事件報道の連続、「帰らなければ良かった」と後悔した。以来、「何時かグレンデールに戻りたい」が口癖となった。 僕はSUSIE'S FRIENDSと接してSUSIEのディテールを、SUSIEからは普段着のアメリカ社会を垣間見た気がする。▲ |
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「日本の美術愛好家なら誰でも知っているような、有名な芸術作品に描かれた風景を毎号表紙で取り上げてみたいのですが」。 1990年代半ばに《日経アート》という美術雑誌の編集を担当しており、雑誌のリニューアルに際して表紙を印象的なものに変えたいと考えていた私は、連載などで気心の知れた写真家、奥村森さんにこう相談した。奥村さんは、この依頼を快く引き受けてくださったが、実はこれはとんでもないお願いだった。 優れた芸術家は、風景をモチーフとしながらも、その中に時代の精神や芸術家自身の思想や人生を凝縮し、定着する。私たちは、全く異質な時間と場所の中に生きているにも関わらず、その作品の前に立つとき芸術家が生きた時代に思いを馳せ、芸術家の歩んだ人生やその人となりを心に描くことができる。 したがって写真家にとって芸術が生み出された風景を再現する試みは、非常に厳しく、難しい作業だったに違いない。芸術家がイーゼルを立てた同じ場所に三脚を据えて、目前の風景をそのまま撮影すれば良いというものではなく、芸術家の生きた時代やその生き様を自分の中に取り込んで追体験し、それをもう一度再構成し、フィルムに定着するというプロセスをこなさなければならないからだ。 しかも、経費の関係から1回の取材旅行で著名な芸術作品にゆかりの地を何ヶ所も回って表紙の写真を撮りためていただき、表紙の言葉を綴っていただいた。限られた時間の中で時代も国も異なる何人もの芸術家の足跡を辿り、それを自分の中で消化して解釈しなおすことは、想像以上に精神力のいる作業だったはずだ。 しかし、奥村さんは文句一つこぼさずに「芸術家は何を考え、何を描こうとしたのか」という、作品の本質を真摯に追求し、自身の写真に表現してくださった。 結果が素晴らしいものであったことは、言うまでもなく明らかだと思う。 日経デザイン編集長 勝尾岳彦 ▲ |
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